「遊学塾」「江戸の礎 羽村堰で春を愛でる」詳報 

  生活支えた玉川上水 歴史や秘密に耳傾ける 

 春を感じながら桜の名所で知られる羽村堰(せき)周辺を散策、江戸庶民の生活を支えた玉川上水の歴史を学ぼうという4月遊学塾「江戸の礎 羽村堰で春を愛(め)でる」。羽村郷土研究会の須崎新太郎会長を講師に、玉川上水が生活にもたらした功績や“秘密”などを学んだ「春の一日」を紹介する。

 集合場所のJR羽村駅前から羽村堰に到着すると、名所として知られるサクラ並木は、すでにかなり葉が目立つようになっていた。しかし、江戸時代に「羽衣の堰」とまで呼ばれた、マツの木などで作られたいかだ通しや石畳、流れが作り出す水しぶきの様子は、春の陽光に輝き、美しい光景を映し出していた。

 ――玉川兄弟出生の秘密

 羽村堰から四谷大木戸までの43キロに及ぶ玉川上水は、玉川庄右衛門と清右衛門の兄弟の指揮によって作られ、1653年に完成した。堰に面した広場には、玉川兄弟の銅像が建立されている。銅像は兄弟が羽村市出身という前提で、1958年に市民などの寄付金で建てられたが、「玉川兄弟は実は出生など、よくわからないことが多いのです。芝のあたりの出身とも、遠州(静岡県)の出身とも言われます」と須崎さん。

 兄弟が羽村の出身という説は、市出身で長編小説「大菩薩峠」の著者として知られる中里介山が唱えた。介山の母の実家の加藤家に、兄弟が羽村出身であることを示す資料を発見したとされる。

 ――忍者の技で測量?

 須崎さんによると、玉川上水の工事に関する資料はほとんど残されていない。のちの大火で焼失したとも、上水の構造自体が機密に属するために公開されなかったとも考えられるという。上水は100メートルごとに約20センチのこう配がつけられているが、どのような方法で測量されたかも不明という。「夜間に、ろうそくなどを持ったひとを立たせて傾斜などを測る『忍者の技術』を使って測量したとも言われています」と解説した。

 ――進取の気性を生む

 江戸の人口が急増し、神田上水だけでは不足していた生活用水をまかなうために作られた。だが、上水の水はかんがい用水として、武蔵野地区の新田開発にも寄与し、多くの人々が入植するきっかけにもなった。

 しかし、須崎さんはそれだけではなく、地元の羽村の人々の気持ちにも大きな影響を与えたと指摘する。「江戸中心部と文化・経済が直結したことで、羽村付近のひとは多摩のほかの地域とは違う精神、よく言えば進取の気性を持つようになった」という。須崎さんは、「こうした地域の気性が、独特の視点で時代を見つめた介山を生み、江戸期の天明の大飢饉(ききん)の際に、米を買い占めた富商を名主たちが襲って農民を助けた行動につながったのでは」と説明した。



  この日は、介山の墓や飢饉の際に立ち上がった人たちをたたえる「豊饒(ほうじょう)の碑」がある禅林寺、本殿が都の文化財に指定されている阿蘇神社も散策。堰の近くのチューリップ畑では、約20万本の赤や黄色の花に「じゅうたんみたいに見える」と歓声もあがった。青梅市から参加した斉藤隆夫さん(64)は「いかだを通す仕組みなど、羽村堰の構造についての話がとても興味深かった」。八王子市から参加した梅田ノブ子さん(78)は「玉川兄弟の話がとても面白かったし、堰の近くのサクラ並木やチューリップがとてもきれいだった」と話していた。

   
 (4/20・読売新聞多摩版記事より転載 )